暁降ちのころ

暁降ち(あかつきくたち)と読みます。40歳から始めた日常の整理、備忘録などを思うままに好き勝手書いています。

頑張るという言葉の危険性

立場上、社内で作成される稟議書類(我が社では起案書という)はすべて目を通しているのですが、先日こんなひと幕がありました。

それは新規案件の企画をまとめた起案書でした。起案者は入社後5年ほどの若手社員です。個人的に、新しいことにチャレンジするという気持ちは買いたいと思うタイプなので、できるだけ通す方向に導いてやりたいと思っています。そのときも、まだまだ詰めなきゃならないポイントや、もっと圧縮しないといけないコストがあったのですが、概ね好意的な心境で各資料を確認していました。しかしひとつだけどうしても再考させないといけない部分がありました。目標設定にかかる数字の部分です。

その数字に基づき、いわゆる「ヒト、モノ、カネ」が動くので、そのまま通すと決裁者としての責任を問われかねません。そのため、そこをどう考えているのか確認するため、呼んで話をしました。

まずはアイスブレイクとして軽いジャブから。

俺「新しいことにチャレンジするのは良いと思うよ。誰と考えたの?」
若「ありがとうございます。これは先輩のAさんと同期のBさんと計画しました」
俺「少し変更しなきゃいけないところもあるけど、やることはいいんじゃない?」
若「実はその部分は進めながら相談したいと思っていたところなんです」

基本は良いところを見つけて褒めます。そして意見を引き出させます。経験上、頭ごなしに否定されると、以降チャレンジすることすら億劫になってしまう気がするので。そのうえで、核心の質問を投げてみます。

「ちなみになんだけど、この目標数値にはどうやって到達する計画なの?」
「えっと、そこは………が、頑張ります」

 

。。。聞きたかったのは "それ" じゃない。

 

その答えを聞き、残念ながらこの案件はいったん差戻しとさせてもらいました。

気持ちは分からなくありません。けど頑張るのは当たり前で、それは皆が当たり前にすること。しなきゃならないこと。俺が聞きたかったことは、その頑張る中身で、それが本人のなかではっきりしてないと、仮に成功したとき、もしくは残念ながら失敗したとき、理由が分析・検証できない。ということは、成功はこの1回きりになってしまうかもしれないし、失敗が2回、3回って連続してしまうかもしれない。

よほど大きな案件じゃないかぎり、たった一度の成功で残りの会社員人生をが安泰なんて人はいないでしょうし、反対に同じ失敗を性懲りもなく何度も続けてしまうと、社内でチャレンジする機会すら無くなっていってしまいます。だから、あえてここは譲りませんでした。

しかし「頑張る」って、とても便利な言葉であると同時に、危ない言葉な気がします。抽象的というのか、精神論というのか、なんというか…。仕事してるなかでは、あまり聞きたくない言葉ですね。自分自身も気を付けないといけません。