暁降ちのころ

暁降ち(あかつきくたち)と読みます。40歳から始めた日常の整理、備忘録などを思うままに好き勝手書いています。

社会人にとっての研修の意義とは

先週の月曜、火曜と、久しぶりに東京へ行ってきた。本社出張だ。コロナ禍以降、劇的に変わった働き方として、会議や研修がすべてオンラインに切り替わったのを喜ばしく見ていたのだが、徐々にそれも元通りとなり、誰が言ったのか知らないが『対面で直接話をすることが大事だ』勢力が、また盛り返しつつある。

今回は、新任のマネージャー研修だった。月曜は午前中に上京し、研修が午後から夕方まで。火曜は朝から夕方まで研修し、夕方から帰阪。ビジネスホテルもインバウンドの影響なのか驚くほど高いし、研修のカリキュラムもわざわざ集まるほどのものじゃなかったし、街中はミストサウナのように暑いし、本当に誰得なんだという2日間。収穫があったとすれば、日本の首都に降り立ち若干の仕事のモチベーションUPが出来たということと、新任マネージャーのなかでは一番若いことが確認できたことくらい。

 

研修に関連するが、今年度、全社的事業目標のひとつとして「人材育成」が掲げられ、各事業所でも具体な目標値を設定することになった。人材育成に対して定量で評価できないのでは?というそもそもの疑問はさておき、右向け右の号令に倣い、幹部会議での協議の結果「人材育成につながる研修を充実させる」ことにしたものの、やはりこれが難しい。

企画することの大変さは良く分かっているが、やはり研修というものは受け手のニーズにマッチしていないと、今回俺が受けた研修のように主催側の自己満足に終わってしまうことが多い。かといって『どんな研修を受けてみたいか』と問うてみても、だいたい何も意見は出てこない。要はその研修により自分自身がスキルアップし、仕事にどのように生かされ、それが評価に繋がるか。そこまでイメージができないんだろう。

例えばだけど、仕事がプログラマーで、新しいプログラム言語を覚えるための研修、かつその言語を使えたら給料が上がるのであれば、みんな目の色を変えて受講するだろう。その反対として考えると、給料アップ(短期のみならず長期含め)につながるというイメージが湧かない研修は本務を中断してまで誰だって受けたくないのだ。

そう考えると「人材育成」というのは、きっちりと評価してやること。つまりボールは社員側ではなく会社側にある。そう考えると「人材育成につながる研修を充実させる」では足りなくて「人材育成につながる研修を充実させ、スキルアップした能力を業務に活かせた者を評価する」としておけば良かった。今さらながら。

 

まさか今回俺が受けた研修、こういう自問をさせるためだった……なんてことはないか。今週は三連休明けで、4日間しかない。まもなく梅雨も明けるだろうし、学校は夏休みに入る。新任マネージャーの身で俺個人はまだまだ忙しいけど、部下に夏休みも取らせなきゃならないし、8月には抜釘手術が待ってるし、この夏は働かなければだ。頑張っていきましょう。